327. 「○○の申し子」という言い方について
- 2017/09/07
- 16:30
「○○の申し子」という言い方について考えてみたんですが。
「○○の申し子」という言い方をされる人が出現する遙か以前に、
「○○」という価値を作り、
どれくらいの価値であり、技術であるかを一般的に広く知らしめた人がいるということですよね。
例えば、「○○の申し子」という言い方をされる人の師匠さんとしましょう。
このお師匠さんがどのように成長し、そのような姿になったかというと、
自分で様々な物事に対する見聞を深め、見識を広げて、そのような技術を作っただろうと考えられます。
様々にもっている技術の1つが有名になっただけかもしれません。
(他の技術を支える技術かもしれませんし、他の技術があってこそのオリジナルな技術かもしれません。)
「○○の申し子」という言い方をされる人について考えると、
自分で様々な物事に対する見聞を深めることなく、
お師匠さんについてその技術のみ勉強した人だったとしても、
「○○の申し子」という言い方をされる人になり得ると思います。
お師匠さんの技術や見識に比べると、
貧弱かもしれませんね。
(生み出すための、見識や技術などの裾野がないのですから。)
「守・破・離」で言えば、「守」のみの人です。
なんで、自分でも開発することって大事だと思うんですよ。
そのためには、自分の見識というデータベースを作る必要があるんだと思うんです。
(暗記じゃなくて、理解して頭に入れてくださいね。)
誰かのコピーではだめなんですよ。
基本的に、劣化コピーですから。
「○○の申し子」と言われている限り、
お師匠さんには勝てない人(要するに比べると必ず劣っている人)なんじゃないですかね?
大して、大したことない人なんじゃないかと思うんですよ。
(いるんですよね、自分で価値を感じられない人って。
ちゃんと判断するための素養はいると思いますけれど。)
<追記>2017.09.07
物マネができるという能力について
関連してですね、
「○○の物マネができる」ということについてなんですが、
技術がないと表現できないでしょうから、
「○○の物マネをするための技術」はその人の中に存在している事の証明にはなると思います。
その技術を学ぶ(悪く言えばコピーする)ために勉強したでしょうし、
「勉強をしたよ」というアピールにはなると思います。
また、「△△(自分のプロジェクトです)を表現する」ために必要な技術がなければ、
表現できませんから、
技術の学習は大切です。
さらに、「△△(自分のプロジェクトです)」というものは、
往々にして他に類がない物ほど評価されることになり、
つまり、比較対象がない(偏差値のような便利な物がない)ことになるので、
先に評価を得ている「○○の物マネができる」というのは、
技術力のアピールにはなると思います。
上記のことがありますので、
先生に対して「××の技術を学んだ(先生の技術をコピーした)から、仕事をくれ、斡旋しろ」というのは、
何をしているかというと、
(そういうのって、先生に対して非常に失礼だと思いますけれど。)
「クリエイティブな業界における「知的肉体労働者」になりたい」ということになります。
(肉体労働がいけないというのではなく、頭が動いていないというのが問題だと思うのです。)
そのような姿勢では、先生と同様の仕事にはつけないと思いますよ。
技術があれば、時給があがりますね。
一応、自分を仕事をする人として売り込むことが出来ます。
しかし、その仕事自体を作れるかどうかで、さらに給料は変わります。
(つまり、何かを得る際に果たした寄与の重要度、大きさが変わるということです。)
自分の売り込みたい仕事内容が全体の寄与のどれくらいかというのは大切な視点かもしれません。
(売り物自体の寄与の大きさも忘れてはいけません。)
また、人には学習段階というものがありますので、
「クリエイティブな業界における「知的肉体労働者」」的な立場であっても、
学習するためならば、非常に良い(プロの現場ですから)のではないかとも思います。
<追記>2017.09.17
「知的肉体労働者」という言葉について、解説を付け加えたいと思います。
「例え、ある一定のレベルにまで教育をされていても、
(一般的には教育されていると見なされるぐらいのレベルでも構いません)
自分自身のアイデアがなく、
自分自身に対する動作の命令を下していない人」ということになります。
例えば、大学で専門的に教育を受け、そのソフトウェアの操作方法をしっていても、
その動作自体が誰かから命令されているだけの人ということになります。
(「自分のクリエイティブなアイデアのない専門的にコンピューターを操作する肉体労働者」という人のことになります。)
ただ、その操作やその仕事の目的を心から好きだった場合には、
例え監督などの立場にいなくても、その仕事は良い仕事でしょうし、
「知的肉体労働者」ではないと強く思います。
その仕事が好きだった場合、
その心は活発に活動していると思うんです。
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「○○の申し子」という言い方をされる人が出現する遙か以前に、
「○○」という価値を作り、
どれくらいの価値であり、技術であるかを一般的に広く知らしめた人がいるということですよね。
例えば、「○○の申し子」という言い方をされる人の師匠さんとしましょう。
このお師匠さんがどのように成長し、そのような姿になったかというと、
自分で様々な物事に対する見聞を深め、見識を広げて、そのような技術を作っただろうと考えられます。
様々にもっている技術の1つが有名になっただけかもしれません。
(他の技術を支える技術かもしれませんし、他の技術があってこそのオリジナルな技術かもしれません。)
「○○の申し子」という言い方をされる人について考えると、
自分で様々な物事に対する見聞を深めることなく、
お師匠さんについてその技術のみ勉強した人だったとしても、
「○○の申し子」という言い方をされる人になり得ると思います。
お師匠さんの技術や見識に比べると、
貧弱かもしれませんね。
(生み出すための、見識や技術などの裾野がないのですから。)
「守・破・離」で言えば、「守」のみの人です。
なんで、自分でも開発することって大事だと思うんですよ。
そのためには、自分の見識というデータベースを作る必要があるんだと思うんです。
(暗記じゃなくて、理解して頭に入れてくださいね。)
誰かのコピーではだめなんですよ。
基本的に、劣化コピーですから。
「○○の申し子」と言われている限り、
お師匠さんには勝てない人(要するに比べると必ず劣っている人)なんじゃないですかね?
大して、大したことない人なんじゃないかと思うんですよ。
(いるんですよね、自分で価値を感じられない人って。
ちゃんと判断するための素養はいると思いますけれど。)
<追記>2017.09.07
物マネができるという能力について
関連してですね、
「○○の物マネができる」ということについてなんですが、
技術がないと表現できないでしょうから、
「○○の物マネをするための技術」はその人の中に存在している事の証明にはなると思います。
その技術を学ぶ(悪く言えばコピーする)ために勉強したでしょうし、
「勉強をしたよ」というアピールにはなると思います。
また、「△△(自分のプロジェクトです)を表現する」ために必要な技術がなければ、
表現できませんから、
技術の学習は大切です。
さらに、「△△(自分のプロジェクトです)」というものは、
往々にして他に類がない物ほど評価されることになり、
つまり、比較対象がない(偏差値のような便利な物がない)ことになるので、
先に評価を得ている「○○の物マネができる」というのは、
技術力のアピールにはなると思います。
上記のことがありますので、
先生に対して「××の技術を学んだ(先生の技術をコピーした)から、仕事をくれ、斡旋しろ」というのは、
何をしているかというと、
(そういうのって、先生に対して非常に失礼だと思いますけれど。)
「クリエイティブな業界における「知的肉体労働者」になりたい」ということになります。
(肉体労働がいけないというのではなく、頭が動いていないというのが問題だと思うのです。)
そのような姿勢では、先生と同様の仕事にはつけないと思いますよ。
技術があれば、時給があがりますね。
一応、自分を仕事をする人として売り込むことが出来ます。
しかし、その仕事自体を作れるかどうかで、さらに給料は変わります。
(つまり、何かを得る際に果たした寄与の重要度、大きさが変わるということです。)
自分の売り込みたい仕事内容が全体の寄与のどれくらいかというのは大切な視点かもしれません。
(売り物自体の寄与の大きさも忘れてはいけません。)
また、人には学習段階というものがありますので、
「クリエイティブな業界における「知的肉体労働者」」的な立場であっても、
学習するためならば、非常に良い(プロの現場ですから)のではないかとも思います。
<追記>2017.09.17
「知的肉体労働者」という言葉について、解説を付け加えたいと思います。
「例え、ある一定のレベルにまで教育をされていても、
(一般的には教育されていると見なされるぐらいのレベルでも構いません)
自分自身のアイデアがなく、
自分自身に対する動作の命令を下していない人」ということになります。
例えば、大学で専門的に教育を受け、そのソフトウェアの操作方法をしっていても、
その動作自体が誰かから命令されているだけの人ということになります。
(「自分のクリエイティブなアイデアのない専門的にコンピューターを操作する肉体労働者」という人のことになります。)
ただ、その操作やその仕事の目的を心から好きだった場合には、
例え監督などの立場にいなくても、その仕事は良い仕事でしょうし、
「知的肉体労働者」ではないと強く思います。
その仕事が好きだった場合、
その心は活発に活動していると思うんです。
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