306. 花見と敷物
- 2017/08/04
- 21:16
桜の木があったとしましょう。

沢山あってもいいし、1本の大きな木を想像しても構いません。
花見の季節になって、
みんなが花見をしようと集まってきました。
一人一人、思い思いに自分の居心地の良い大きさの敷物を敷いて、
思い思いに花見を楽しんでいるとします。
敷物を敷くときに、
自分に必要で居心地の良い大きさの敷物は確保しますが、
みんなで楽しめばよいので、
お互いに譲り合うということもするかもしれません。
みんなで楽しいのは楽しいですよねw
わーい。わーい。
がやがや。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
実はこれはたとえ話で、
「花見」というのが人生を楽しむこと、
「敷物の大きさ」が人間社会における「自我の大きさ」ではないか
と思うんです。
「自我が普通より肥大化している人」は
敷物の大きさが本人の必要としている大きさ(人間社会における本人の大きさ)より
大きくて他の人が花見をするのを邪魔してしまっているんじゃないかと思うんです。
みんながみんなの気持ちよくなるようにルール(法律など)を設け、
仲良く敷物を敷き、自分の人生を楽しく味わおうとしているのに、
迷惑なことをする人がいます。
みんなの敷物の上に自分の敷物を無法に敷いて、のさばってしまったりするんです。
僕たちの社会では、
国民としての最低限の義務を果たし、
他の人の迷惑にならないようにして、
毎日の生活費(ご飯代や洋服代、住居費など)を自分で稼げれば、
特に何をして暮らしていようと、
本人さえ良ければオールオッケーなことになるんじゃないかと思うんです。
自分が楽しくて、「飯がうまいぜ、らららら~」と感じる毎日を送れればいいんですよね?
(109. パワーステッカー 第1弾の4 「飯はうまいか」を参照ください。)
ちゃんと自分のどら焼きを自分で食べれば良いんですよね?
(他の人が食べているのを見ているだけでは、おいしく感じられませんから。)
そして、最低限の生活費については
アルバイトなどをするなどできますので、
稼ぎやすい環境にあるんじゃないかと思うんですよね。
人に迷惑をかけないと自分の生活を稼げないという環境じゃないと思うんですよ。
なんで、迷惑をかけてくる人と一緒の生活空間に無理にいなくていいと思うんですよねぇ。
だって、危ないじゃないですか。
そんなに難しい議論をしているわけじゃないと思うんですよね。
人に迷惑をかけさえしなければいいんですよ。
それだけなんです。
(人に迷惑をかけたら、責任を取ってもらうことになりますけれど。
怒って、恐くない人は普通いませんからね。)
<追記>2017.08.04
そうそう、書き忘れました。
ビバビバ人生を楽しむのは楽しいですが、
楽しみ方でご飯のおいしさが変わるようですし、
自分の人生がどんな人生であっても
自分の人生の責任は自分で取ることになるようなので、
きちんと自助努力をしたいところです。
(お互いにです)
<追記>2017.08.05
上のお話の元は僕の心象風景ですので、
僕の創作物語なんですけれど、
(ここに載っている引用がないのは全て僕の考えです。
「よく~と言われますが」というのは、様々な本やちまたで見かけた内容になります。)
花見を楽しんでいるのに、隣のお茶を盗んだり、まんじゅうを盗んだりする輩もいると思うんですよ。
(そういう人がいない方が、僕たちは存分に楽しめますよねえ。)
取られたりするのもそれを見るのも、気分悪いし、気持ち悪い気がしますね。
(こういう気持ち悪さに敏感でいたいものです。)
普段の生活では、そういう人がいると思って対応してますけれどもね。
「迷惑な人がいない世界はとっても気楽で楽しい。」
と、感じられるお話になっていると思うんですよ。
「仲良くしようとしない人」と一緒にはいられませんので、
無理して一緒にいる必要がないと思うんですよ。
友達にいても、
家族にいても、
恋人にいても、
何かのサークルにいても、
会社にいても迷惑ですし。
何かの楽しみの会にいられても迷惑ですよねぇ。
また、「自分から自分の人生を楽しもうとしない人」は、
そういう行動を選んでいるんでしょうから、
(つまり、自分で自分を存分に楽しませていないという行動)
ご自分で自分の状況を納得できると思いますけれどもね。
他人に迷惑をかけなければいいんですよ、要するに。

沢山あってもいいし、1本の大きな木を想像しても構いません。
花見の季節になって、
みんなが花見をしようと集まってきました。
一人一人、思い思いに自分の居心地の良い大きさの敷物を敷いて、
思い思いに花見を楽しんでいるとします。
敷物を敷くときに、
自分に必要で居心地の良い大きさの敷物は確保しますが、
みんなで楽しめばよいので、
お互いに譲り合うということもするかもしれません。
みんなで楽しいのは楽しいですよねw
わーい。わーい。
がやがや。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
実はこれはたとえ話で、
「花見」というのが人生を楽しむこと、
「敷物の大きさ」が人間社会における「自我の大きさ」ではないか
と思うんです。
「自我が普通より肥大化している人」は
敷物の大きさが本人の必要としている大きさ(人間社会における本人の大きさ)より
大きくて他の人が花見をするのを邪魔してしまっているんじゃないかと思うんです。
みんながみんなの気持ちよくなるようにルール(法律など)を設け、
仲良く敷物を敷き、自分の人生を楽しく味わおうとしているのに、
迷惑なことをする人がいます。
みんなの敷物の上に自分の敷物を無法に敷いて、のさばってしまったりするんです。
僕たちの社会では、
国民としての最低限の義務を果たし、
他の人の迷惑にならないようにして、
毎日の生活費(ご飯代や洋服代、住居費など)を自分で稼げれば、
特に何をして暮らしていようと、
本人さえ良ければオールオッケーなことになるんじゃないかと思うんです。
自分が楽しくて、「飯がうまいぜ、らららら~」と感じる毎日を送れればいいんですよね?
(109. パワーステッカー 第1弾の4 「飯はうまいか」を参照ください。)
ちゃんと自分のどら焼きを自分で食べれば良いんですよね?
(他の人が食べているのを見ているだけでは、おいしく感じられませんから。)
そして、最低限の生活費については
アルバイトなどをするなどできますので、
稼ぎやすい環境にあるんじゃないかと思うんですよね。
人に迷惑をかけないと自分の生活を稼げないという環境じゃないと思うんですよ。
なんで、迷惑をかけてくる人と一緒の生活空間に無理にいなくていいと思うんですよねぇ。
だって、危ないじゃないですか。
そんなに難しい議論をしているわけじゃないと思うんですよね。
人に迷惑をかけさえしなければいいんですよ。
それだけなんです。
(人に迷惑をかけたら、責任を取ってもらうことになりますけれど。
怒って、恐くない人は普通いませんからね。)
<追記>2017.08.04
そうそう、書き忘れました。
ビバビバ人生を楽しむのは楽しいですが、
楽しみ方でご飯のおいしさが変わるようですし、
自分の人生がどんな人生であっても
自分の人生の責任は自分で取ることになるようなので、
きちんと自助努力をしたいところです。
(お互いにです)
<追記>2017.08.05
上のお話の元は僕の心象風景ですので、
僕の創作物語なんですけれど、
(ここに載っている引用がないのは全て僕の考えです。
「よく~と言われますが」というのは、様々な本やちまたで見かけた内容になります。)
花見を楽しんでいるのに、隣のお茶を盗んだり、まんじゅうを盗んだりする輩もいると思うんですよ。
(そういう人がいない方が、僕たちは存分に楽しめますよねえ。)
取られたりするのもそれを見るのも、気分悪いし、気持ち悪い気がしますね。
(こういう気持ち悪さに敏感でいたいものです。)
普段の生活では、そういう人がいると思って対応してますけれどもね。
「迷惑な人がいない世界はとっても気楽で楽しい。」
と、感じられるお話になっていると思うんですよ。
「仲良くしようとしない人」と一緒にはいられませんので、
無理して一緒にいる必要がないと思うんですよ。
友達にいても、
家族にいても、
恋人にいても、
何かのサークルにいても、
会社にいても迷惑ですし。
何かの楽しみの会にいられても迷惑ですよねぇ。
また、「自分から自分の人生を楽しもうとしない人」は、
そういう行動を選んでいるんでしょうから、
(つまり、自分で自分を存分に楽しませていないという行動)
ご自分で自分の状況を納得できると思いますけれどもね。
他人に迷惑をかけなければいいんですよ、要するに。